2023.07.0470年代のアメリカ音楽とその歴史

1970年代はかつてないほど豊富なジャンルの音楽が栄えた時代でもあります。ファンクやディスコ、ハードロックなど数多くのジャンルがアメリカを中心に生まれていきます。

60年代の熱狂的な空気、80年代の明るい雰囲気に挟まれた70年代は、時代の流れもあり閉塞的な一面も。

今回は70年代のアメリカ音楽史のごく一部をご紹介していきます。

1 1970年代に迎えたロックの終焉

1969年夏に開催された伝説的イベント「ウッドストック・フェスティバル」では事実上のフリーイベント状態だったため、実に40万人もの観客を動員しました。

1970年にイギリスのワイト島で開催され、60万人もの観衆が訪れたイベントは、ウッド・ストックと同様に「愛と平和と自由」を掲げたものでしたが、入場料が徴収されました。

それに対して観客たちは「ロックは反商業主義のはずだ」との思想から暴徒化してしまいました。フィールドを仕切る壁を壊し、無秩序状態となってしまったのです。

イベント終了後には、大量のゴミや汚物、壊された施設の残骸が残され、ヒッピーたちが抱いていたラブ&ピースの幻想は崩壊してしまいます。

アメリカの抱える社会問題は解決されず、引き続きデモがなどが行われていたものの、ロックとの結びつきは弱くなっていました。

また、1969年12月のコンサート中に殺人が発生した「オルタモントの悲劇」、1970年の4月にはビートルズ事実上の解散、9月にはギタリストであるジミ・ヘンドリクスがドラッグの過剰摂取により死亡、さらに10月にはジャニス・ジョプリンも死亡するなど、悲しい事件が多く続きます。60年代後半の熱狂的な空気感は瞬く間に消え行き、1970年はまさに「祭りの終焉」という雰囲気に包まれていました。

1970年という年を象徴するようなヒットとなったのが、サイモン&ガーファンクルの「明日に駆ける橋」、ビートルズの「レット・イット・ビー」でした。どちらもゴスペルをベースにした救済の歌で、当時の若者たちの気持ちを表しているといえます。

2 ロックはチームの時代から個の時代へ

70年代に入り、LSD蔓延に疲れたロックミュージシャンたちもやや落ち着いたサウンドを求めはじめ、ブルースなどアメリカ土着の音楽のイメージへ原点回帰の傾向を見せた音楽はルーツ・ロックとも呼ばれるようになりました。

70年代前半に人気となった、フォークロックの流れを持つ穏やかなサウンドは概してソフト・ロックなどと表現されるようになります。

70年代に入ると、ビートルズの元メンバーであるジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スターをはじめとして、ソロ活動を開始するアーティストが目立ち始めます。

60年代がグループ活動を軸にした「チームの時代」であったとすれば、70年代はソロ活動が台頭する「個の時代」だったといいます。

このような流れの中で、70年代初頭に多彩なシンガー・ソングライターたちが脚光を浴びることとなりました。

シンガー・ソングライターが集まったユニットとして、イーグルス、オーリアンズ、ロギンス&メッシーナなどが結成されたほか、兄妹デュオのカーペンターズや夫妻デュオのキャプテン&テニールなどの男女デュオも、多くのヒットを記録していきます。

3 モータウンのヒットと、ニューソウルの台頭

70年代はロック以外にも様々な動きがありました。その一つが1960年代末までのソウル・ミュージックとは一線を画す新しいタイプのサウンドの登場です。

そのムーブメントは「ニューソウル」と呼ばれました。

主なニューソウル的な動きを始めたのは新世代の黒人アーティストたち。さらにこのニューソウル期にはモータウンからも偉大なアーティストが多数登場してヒットを重ねます。

その代表格は何と言ってもスティービー・ワンダーでしょう。さらに、マーヴィン・ゲイもニューソウルの筆頭とされました。他に、スプリームスを脱退してソロ活動を始めたダイアナ・ロスや、若かりし頃のマイケル・ジャクソンらによるジャクソン5、そしてライオネル・リッチーが所属したコモドアーズなど、今も耳にするビッグアーティストがモータウンから輩出されていきます。

4 フィリー・ソウルの人気向上

70年代前半にはさらに、フィラデルフィア発のソウル・ミュージックも台頭します。

これをフィリー・ソウル(フィラデルフィア・ソウル)と呼びます。フィラデルフィア・インターナショナル・レコード(PIR)から発信されてムーブメントとなったこのサウンドは、作品の大半がシグマ・スタジオで制作されたことにより「シグマ・サウンド」とも呼ばれいるジャンルです。

ストリングスを活用した甘めのサウンドが特徴です。

このようなストリングス・サウンドのアレンジが、ディスコブームのアレンジに影響していったのでした。

5 70年代を代表するムーブメント「ディスコ・ブーム」

1975年、ヴァン・マッコイの「ハッスル」が大ヒット。ここから、70年代後半にかけて空前のディスコブームがスタートします。

「ディスコ」とはもともと、レコードに合わせて客がダンスを踊る娯楽場を意味しています。

このディスコでは60年代ではソウル・ミュージックやファンクが、70年代前半にはフィリー・ソウルなどもブームになっていました。

ディスコでは「客をより気持ちよく踊らせるのはどうしたらいいのか?」という発想から曲のテンポが注目され、心臓の鼓動に合わせたようなテンポの曲が増えていきます。

人々が踊るのに非常に適したリズムはすぐに浸透し、新しいダンス・ミュージックとして急速に広まっていきます。

6 ディスコ・ムーヴメントの終焉

「踊るための音楽」であったディスコ最大の特質は、次第に一定の層から疎んじられるようになっていきます。ディスコ・ミュージックの発展性のなさが徐々に批判されるように。

その不平が頂点に達したのが、1979年に起こった「ディスコ・デモリッション・ナイト」事件です。

反ディスコ派閥の急先鋒だったラジオDJスティーヴ・ダールという人物が、野球場に大量のディスコ・レコードを集め、それらを爆破してみせるという過激なパフォーマンスを企画します。

大のディスコ嫌いで、反・ディスコ活動をしていたスティーブ・ダールは、シカゴ・ホワイトソックスの球団にとある企画を持ち掛けました。

それは、ホワイトソックス球場での野球の試合に、要らなくなったディスコのレコードを持ってくると格安で入場できるというもの。

当日、球場は想定以上の観客とレコードで溢れかえっていました。そして、1試合目と2試合目の間に、集めたレコードを爆破してしまったのです。

この催しに詰めかけた人数はおよそ75,000人。野球観戦に関心のないディスコ嫌いが一堂に会し、野球の試合中にもディスコへの罵声が飛び交っていたと言います。

この一件はポピュラー音楽史上における最悪の汚点の1つと言えるでしょう。

このディスコへの憎悪は、単に批評的音楽分析の結果ではなく、ディスコ・ムーヴメントを支えたアフリカン・アメリカンや同性愛者に対する差別意識からくるものでした。結果的に暴動に発展し、多数の逮捕者を出してしまいます。

この事件と時代の流れが重なり、1970年代末にディスコ・ムーヴメントは急速に沈静化します。

次の時代、80年代の幕開け

70年代後半は様々な事が重なり音楽シーンはもちろん世の中全体が閉塞的な雰囲気でした。80年代を

80年代は音楽史を彩る重要な時代でしょう。ポピュラー音楽を代表する偉人、マイケル・ジャクソンが台頭したのもこの時代でした。彼が1982年に発表したアルバム「スリラー」は7,000万枚にものぼる史上最大のセールスに。

さらにヒップホップもその存在感を増していきます。ヒップホップは1970年代から存在こそしていましたが、音楽としてシーンに台頭し存在感を発揮するのは1980年代に入ってから。

そしてこのヒップホップは、今日に至るまで極めて重要な音楽として広まっています。